ハンドメイド作家になるための私のストーリー
目次
プロフィール
はじめまして ハンドメイド作家のNagi / 凪と申します。
いきなりですが私は体が不自由です。
ですが今私はとても幸せで充実した日々を送れていますがなかなか波乱万丈な人生…
というわけで今回一気に私の人生を振り返ってアクセサリー作家として今から何を表現したいのか、そして私の人生観を後に紐づけていきたいと思います。
長いよ・・・覚悟してね!
幼少期編
私の曽祖父(えっそんなとこからですか、、、 いちいちツッコミ入れると終わらない・・
私の曾祖父は雪山で遭難、曾祖母はその弟と再婚し祖父は遭難した曽祖父の子でした。
祖父と結婚した祖母は結核におかされ子は母一人しか産めず私の父が養子として母と結婚し私が誕生します。
なぜ話をそこまでさかのぼったのか、要するに私は数世代にわたりやっと誕生した正当な後継ぎとしての長男なのです。
そして親父の使命は何としても私をこの家の後継ぎとして育て上げることとなったのでした。
私の名前は祖母の実家の人が父を呼び半紙に幾つか名前を並べ「これはこういう意味の名前や」などと言われ一番響きのいい「あきら」という名前を選ばされたらしいです。意味は戦時中のその方の上官の名前で素晴らしい人格者だったからとか・・・
風邪をひいたといえば布団を何枚もかけられ問診にきた先生が布団をはぎ取ったら私がおっきく息を吐きだし熱が下がったとか・・・
こんな感じで大切に大切に育てられ立派なもやしっ子になった私なのでした。
しかし私の生まれた町は漁師町。威勢のいいばかりの人中おびえて暮らすもやしっ子。
父も同じような気性で長距離トラックの運転手。母は近くの縫製会社でミシン縫いの仕事で私は祖父と祖母に育てられました。
たまに遊びに連れて行ってもらっても助手席が私で両親は常に怒鳴りあいの喧嘩ばかりでおびえていた記憶しかないのです。
そして父が私に話すことは社会の仕組みだの働く大変さだのと到底遊びではなかった・・
そういった恐怖心が決定的になったのは小学の頃 布団の上で親父とじゃれていた私に妹が混じり親父に負けじともがいていると私の足が妹の顔をかすめた瞬間
親父の大きな手が私の顔面をはりたおし「兄貴が妹の顔を~~」
ただもがいていただけの私には意味が分からず腫れあがった顔を母が冷やしてくれていました。
それから私は自分の顔の前に手が近寄るだけで恐怖を感じる様になってしまいました。
それでも父の事は尊敬し立派で頼りがいのあるよい父だと思っています。
学生編
大切に育てられたもやしっこ子は小学6年生でも身長140㎝ ひょろひょろで小児喘息やら何かと体も気持ちも弱く暴力的な事や大声も嫌いで先生にまで女の子みたいと言われる始末で次第にいじめが始まりそのまま中学へ進学となりました。
私の学生時代はいじめなんて社会問題にもなってはなく、流行は改造制服にやんちゃしてヤンキーがカッコいい時代。
いじめは陰湿ではなく暴力と恐喝でした。意味もなく殴られ蹴られ、財布を持っていればすべて奪われる毎日。
授業中も関係なく背中を蹴られ制服を破られ…
教師も同じだった。女教師が泣いて職員室に変えれば担任が飛んできて生徒を並ばせ一人ずつ殴りつけていく。
態度が悪いとほうきの持ち手でひっぱたく隣の担任が私の部活の顧問だった。
両親に言ったところで「喧嘩に負けて帰ってきたら家に入れるな」は口癖の父
とにかく恐怖の毎日を過ごしきる日々が毎日が高校が終わるまで続いたのでした。
なぜ私はあんなに弱かったのだろうか…
ただ成長期で身長は182㎝になっていました。
青年期
高校も残すは1年となったある日、父がとあるパンフレットを持ってきました。
大阪にある歯科技工士学校のパンフレット、理由は分かりませんでしたが
こんな所から逃げ出したい私にとっては絶好のチャンスでした。
パンフレットには白衣を着て何やら小難しそうな機械が並ぶ部屋が輝いて見えました。
父に行きたいと相談し高校3年の夏には受験いち早く進路が決まり卒業!地獄の毎日からの解放でした。
大阪へ進学した私は、技能職ということもあり昼は歯科技工所で働き夜に学校へ通う毎日を過ごし、
そこで出会ったのがほんと変わった私の師匠。
「凪君私の所で5年頑張ればどこに行っても一人前以上にしてやる」この言葉で私の大阪での生活が5年に伸びました。
さて厳しい修行の始まった大阪時代。師匠は義歯を得意としていたため私も義歯の道へ
部分入れ歯でよく見かける金具!あれを歯一周ワイヤーで曲げある一定の数値の引っ掛かりを付けるのが難しい・・
最初の頃は一つを一日かけて曲げて師匠に無言で捨てられる。そんなことを一年ほど続けていたある日、師匠が私の曲げたワイヤーを模型にはめて返してくれたんです。嬉しかった!トイレへ行き何とも言えない気持ちに浸りました。
ただ厳しいだけじゃなかった師匠。休みの日には若造には入ることもできない料亭やら高級焼肉、てっちり、寿司、、そしてたまの山登り・・・
会社にたまに遊びに来られた業界最大手の社長さんなど師匠は元々一緒に高みを目指し共に頑張った人らしく、師匠は年をとって引退し自宅で若い子を育てるのが楽しみで私がたまたま何も知らず応募したご縁でした。
学校の成績が良かったのは最初だけでしたが、実習科目は3時間の授業を30分で終わらせ友達とワイワイ。実習科目はいろんな技工所の社長さんなどが非常勤講師で来られ多くの方からお誘いを頂き
会社に遊びに来られていた社長さんも当然うちに来るよねって感じでしたが・・・
私は5年で実家に帰ることが絶対の使命?当たり前の事と思い込んでいました。
そして5年の修行を終え福井へ帰った私。福井では大手の歯科技工所にお世話になることになります。
その会社も社長筆頭に同僚まで素敵な人たちばかりで、やっと私の努力が実ったと思えた頃でしたが
本当の私の地獄はここから始まるのです。
社会人編
福井へ帰り仕事も楽しく、夏は海で父と潜って釣りをしたり友人と遊び、冬は毎週スキースノボー三昧。
そのうち親友の紹介で彼女ができ婚約。
すると両親に相談を持ち込まれせっかく嫁をもらうなら家を増改築しようとのことでした。
結納も終わり家も建ち、ようやく我が家の念願、父の使命が果たされるのです。
結婚式が豪華で有名なのは愛知県などありますが福井も豪華です。それも家の長男ともなると来ていただく人数は500人を超えました。どこの芸能人だって感じですよね。
そんなある日婚約者が「なんだかお父さんが急に仕事辞めてきたの」とだけ…
そんな事言われてもさ、、私が何をどうしようも、、どうゆうことだろ?何かあったのかな?くらいしか思っていませんでした。
そこから楽しい毎日に浮かれた私の雲行きが次第に怪しくなっていくのです。
歯科技工士の仕事は一般的に長時間労働でした。そんな中、仕事中に婚約者からよく電話がくるようになっていきました。
「お父さんがお酒飲んで”そんな田舎の長男に嫁にやるために育てたんじゃない”とか言うの。”お母さんも田畑持ってる次男で家建ててくれる人とかがよかった”とか言うし私どうしたらいいか」
こんな悩みが仕事中に毎日かかってくるようになり私の仕事終わりも遅くなっていったのです。
一緒に式場へ行っても婚約者はもう完全にマリッジブルーとなっていました。
私は我慢ができず婚約者の両親と話をしてもその場では「どうしてもさみしさがでちゃって」と謝罪されれば何も言えず、しかし婚約者のストレスと毎日の電話が無くなることはありませんでした。
そんなある日気晴らしにと婚約者をスキーへ誘い迎えにいって車を走らせました。しばらく会話しながら運転をしていると突然何とも言えない恐怖心を感じスキー場へ向かうのが何故か怖くて婚約者に「ごめん何だか体調が悪い」と引き換えし婚約者の部屋で休ませてもらったことがありました。
そして次の週の休日に埋め合わせとまたスキー場へ。婚約者を乗せ運転しだし進むにつれまたもや恐怖心に襲われる。あんなに好きだったスキー、そして婚約者、なにがこんなに怖いのか自分でも意味が分からずパニックになっていました。
そこからは一気におかしくなっていき、記憶も曖昧ですが会社の営業をしていても自分はどこか病気じゃないのか?と恐怖心で毎日総合病院で診察を受けていて世間でうつ病が社会問題化する前だったこともあり気付いてくれたのは妹だったが精神科を受診するのがかなり遅かったようです。
診察では「大丈夫婚約者の人にはきちんと治る病気だと説明してあげるから安心して少し入院しなさい」この会話だけは覚えていた。病室で目を覚ましたのはその三日後だったと思う。部屋にいた看護師がナースコールを押し私が目を覚ましたことを伝えに行ったのか先生が入ってきて何か話してまた眠ったと思う。
闘病編
思ったより早く退院した私は心配をかけた婚約者宅へ行くと家の中は結婚家具でいっぱいになっていました。しかしただ心配かけてスイマセンで済むわけにはいかず婚約者は自分や私を精神的に追いやった両親に罵声を浴びせそれでも婚約者の両親は少しの間だけでも近くで二人で暮らしてほしいみたいな事をお願いされました。
そんな事を言われても我が家は迎え入れるために増改築しローンがあります。どう考えても無理だと思っていると妹が「あんちゃん、私はまだ結婚する予定もない。だからローンの足し出すからあんちゃん幸せになりなよ」と、うつ病の薬でなにかふわふわというか思考がおかしかった私でしたがその妹の言葉で涙があふれてきたのを覚えています。
急ぎ二人で暮らす部屋を決め引っ越しをすまし自宅で家族みんなで休んでいたある日実家の呼び鈴がななりました。訪ねてきたのは婚約者とその両親に親戚。婚約者の父親は玄関で土下座をし結婚の破断を言い渡し話をしようと呼び止めても足早に帰っていきました。家の奥から弟が怒鳴り声をあげて飛び出てきたのを覚えています。ほんとうに私は妹弟に恵まれています。
それからうっすら覚えているのは親戚中が我が家に集まり仲人をつとめてくださる私の大好きなご夫婦が私の手を握り必死に謝ってくれていた。愚かな私をまだこんなに思ってくれる人がいることが少し嬉しかった記憶があります。
それが結婚式の二週間前の出来事で、それからの私は数年の記憶がほぼ無く漫画の一コマの様な記憶が数個コマあるだけでした。記憶が無い時間が今でも何年?なのかは定かではなくある程度で戻ってきたもののパニックだったり錯乱していたり何とも言えない苦しみを誤魔化そうとテーブルに頭をぶつけたり異常に興奮し家を飛び出していこうとして困らせ入退院を繰り返していきました。
ある程度異常さが落ち着いても人格や物事の判断などは明らかにおかしかったと思います。失った仕事を取り戻そうと自宅に歯科技工所を開設するため借金をし機材を揃えたり、病院のデイサービスに通っても気に入らない人への暴言などを医院長、理事長へも向けていました。そしてデイサービスで出会った女性と結婚までしてしまう始末。当然生活などしていけるはずもなく私は離婚を経験することとなりました。
そんな私を家族は見放さず病院のデイサービスでは男性看護師のkさん臨床心理士のmさんは特に私と密に関わってくれました。mさんは普通に一緒に病院を抜け出し二人でたばこを吸いに外出しては話を聞きぐちゃぐちゃなってしまった私の心の釣り糸を一本ずつ解してくれるような事を言ってくれている気がしました。
看護師のkさんは看護師と患者ではなく男同士、人間同士として接してくれました。ある時私に相談を持ち掛けてきたkさん「おれさ、この病院辞めようか悩んでるんや、親友の看護師にも相談しててそこの病院行こうか悩んでる」私は正直戸惑いました。なんで俺なんかに?何かリハビリか?でもkさんは本気だったと思います。記憶が乏しい期間が多いから時間間隔がおかしいかもしれないがうつ病になって10年は経過していたころの話だと思う。
私の記憶がまだ曖昧なので時期をはっきり言えないが妹や弟はきちんと結婚し2人づつ子供もいて立派に生活している。私は解離性障害なども発症し当時は精神福祉手帳3級と年金3級をいただけていました。
その頃私の心を動かすテレビ番組と先生からのきつい言葉がありました。テレビ番組はたまに見かけるようなドキュメンタリーだったが何故かその時の私には強烈な印象を残したのです。それは世界の貧困地域の子供たちのドキュメンタリー。意味など無いように生まれ母からの母乳ももらえずただ死んでいく子供達。ゴミ捨て場で金目の物を物色しわずかなお金で命をつないでいる子供たち、寒さしのぎに下水道で冬を越す子供たち。悔しかったです、ただ自分の情けない心が許せなく涙しました。
主治医の医院長y先生。私が病気になった原因や悔しさばかりこだわったことを言っていると「凪さん、まったく同じ状況でも他の人だったらうつ病にもならず自力で乗り越えたかもしれないよね。確かにうつ病はつらいし不幸な出来事だったかもしれない、しかし君は幼い自分の心とも向き合う必要があるんじゃないかな」と、何にも言えませんでした。それからは先生のこの言葉を胸にしまいうつ病と真剣に向き合う気持ちになったと思います。
まずは家で療養し回復に取り組もうと思った頃に次の病気が私を苦しませ始めた。皮膚に記憶にないかさぶたが数か所、なんだろうと思っているうちにみるみる症状は広がっていったのです。
総合病院の皮膚科へ受診すると「精神系の薬と大きなストレスから発症したと思われる尋常性乾癬です」乾癬と書いてかんせんと呼ぶため何かの病気がうつったのかと思ったがいまだ原因が解明されていない免疫の病気だととのこと。精神科のy先生へ相談すると県内の皮膚科が充実している総合病院を紹介してくれました。
それからしばらくは飲み薬、塗り薬、紫外線を照射する治療が続きました。家では弟に教えてもらったオンラインゲームを楽しめるようになっていました。そのオンラインゲームでちょっと変な人との出会いがありました。ゲームの友達などと攻略などの話をしていると突然私のキャラにちょっかいを出しては逃げる人・・・次の日も、また次の日も。さすがに話しかけると「壁に向かってぼーっと立ってるから」と、いやチャットしてるから動かしてないだけなのだが・・次第にその人とも仲良くなり結婚することとなるのです。
ゲームで仲良くなりSNSで繋がり、電話で話すようになり、会いに来るというので福井でデート。お相手は同じ歳の普通のOLさんで私の病気やすべて話しても会いに来てくれたのです。最初は簡単に福井観光をし、私の体力の無さに少し呆れていたがまた会いに来てくれるとのことで本当に楽しかったし嬉しかった。
そんな事を繰り返しお互い結婚を意識はしたがやはり壁は私の病気。彼女は「私が支えるよ」ってふつう逆ですよね(笑)あの時の私のどこをそんなに気に入ってくれたのかは定かでは無かったがお互い包み隠さず両親に話すことに、私の両親は最初は信じられない様子だったが彼女の覚悟などを知り一緒に挨拶に行ってくれる事に、彼女の方はやはり病気の事など気にしたようだったが「どうせ止めても行くんでしょ」で話は決まったそうでお互いの家族が会い終始和やかに挨拶は終わり彼女は埼玉から福井へ嫁いでくれました。
私の人生観の変化
結婚してからもうつ病での生活の乱れや症状は続いたが朝になれば部屋のカーテンを開けて私に朝日の光をあててくれた。これは【お日様療養】と主治医にも勧められていてもできていなかったことでした。
私がうつ状態でも妻はいつも明るく元気で私も福井を知らない妻と車の運転、特に雪道など運転特訓と道を覚えるため毎日出かける様になり、最初は入るのも嫌だったコンビニやスーパー食事へも少しずつ慣れていきました。妻は常に私の体調や気持ちを優先してくれたのが本当にうれしかった。妻も福井に慣れ介護士として働く様になり私のうつ病は次第に回復していったのです。
しかし悪化していったのは乾癬で全身がかさぶたにおおわれ主治医にはそろそろ生物学的製剤を使った治療を使った治療を勧められはじめた。生物学的製剤とは私の病気の免疫が過剰反応して自分の皮膚を攻撃するのを抑える薬なので免疫力が落ち他の病気になりやすくもなる薬でした。
当然その薬を使って頂こうと思った頃、私の便に大量の血液が混じり慌てて消化器科へ受診し腸の検査をし告げられた病名は「割と初期の大腸カルチノイド」カルチノイドとは癌みたいなものという意味でした。初期での発見だったのでカメラで除去しましたが次の検査でも近くに細胞レベルでの転移が見つかりもう一度転移したら腸を除去すると説明を受けましたがなんとかそこでおさまり定期検査で異常は見つからなくなりました。
しかし皮膚で使うはずだった免疫を下げてしまう薬は当然大腸の転移がしやすくなるため大腸の転移が数年問題ない状態が続かないと使えないとのことで悪化していく一方でした。血液検査ではリウマチの値も高く次から次へと私を蝕む病にうんざりもしていましたが妻はいつも明るく支えてくれていました。
私たち夫婦は子供はあきらめたが二匹の猫を飼うことになりました。最初の子はショッピングモールにできたペットショップでいまいちぱっとしてなかった子猫。しかし何故か気になり足を運んでも他の子猫は次々買われていくのにその子は売れない・・・種類はソマリ。妻は動物の知識も豊富でソマリが大人になった時の魅力を知っていいる様でとうとう半額になってしまったその子を私達は飼うことにしました。
男の子だったので名前は”凪”海が好きな私がおだやかな海の様にと名付けた。二匹目は二年後福井のペットショップサイトで見つけた可愛いスコティッシュの湊ちゃん。凪は自然と妻になつき湊は私にべったりとなり私達の癒しとなりました。
そして夫婦共通の楽しみがもう一つ。妻が嫁いでくるときに持ってきた大量のハンドメイド材料があり歯科技工士だった私は自然とのめりこみ、その時は販売とか考えてはいませんでしたが妻と出かけるのはハンドメイドのパーツショップが多くなっていった時には妻の実家の里帰りでもパーツショップへ行くほど楽しかったのです。
そして私がある時ふと感じたこと「なんだかうつ病のトンネル抜けたかも」と。完治したわけではないがもう昔の様にパニック起こしたり錯乱したりなんてはないと思えた不思議な感覚でした。
話は夫婦のことになっていましたが乾癬は悪化し続けとうとう関節にまで症状が出だし関節症性乾癬の発症。それでも生物学的製剤は使えず次第に歩ける距離も短くなり自力で車椅子をこぐことも不可能になり身体障害者手帳、年金を申請し年金は1級、手帳は3級となった。身体障害者手帳3級からは重度障害者受給者証という制度が使えるらしく医療費負担額がすべて返金される有難い制度です。
その他にも自分で加入していた生命保険も支払いが免除となり医療を安心して受けれる状態になり有難い限りでしたが、脳裏を過るのはいつか見たドキュメンタリー番組で、自分がいかに恵まれているかを思い知ることになりました。自宅での手すりや入浴のための椅子。そして電動車椅子もほぼ支給に近い額で購入でき本当に助かりました。
その後やっと乾癬治療の生物学的製剤を使えるようになり、薬の効果が高い時は楽に暮らすこともできる様になりましたが、そこからは薬害肺炎など薬の副作用にも悩まされることが多くなり飲み薬もステロイドを使用しだし、ステロイドを飲むと血糖値が上がるのでインシュリンを打ったり副作用止めの薬も次第に多くなっていったのです。
当初は効果的な生物学的製剤も効果が薄れ違う薬へ帰ると激しい副作用での入院もあったりと難しい状態になってくると主治医からうちの病院での治療にも限界がありより専門医のいる大学病院を勧められました。まずは北陸でも乾癬治療に力をいれていると聞いていた石川県の大学病院へ、そこで見つけて頂いた効果を発揮する生物学的製剤も半年ほどで効果が薄れもう唯一使える薬は福井の医科大学にしかなくそこでの通院治療が始まりました。
主治医の先生は常に最善を考えてくださり、つらい病状でもても支えてくださる訪問看護師さん、介護士さん、リハビリの先生、困ったことがあると駆けつけてくれる相談員さん、そして家族。今では障害者手帳も1級になりましたが多くの方に支えられているからこそなんとか病気とも戦っていけると思い日本に生まれてよかったと感謝する毎日です。
妻との別れ
そんな中私にまたもや大きな大きな苦しみがありました。相手のあることなので詳細は書けませんが喧嘩したわけでも気持ちが薄れたのでもない理由です。私が元気なら支えあって生きて行けたはず、そんな離婚でした。
妻は私にハンドメイド続けるなら材料全部持っていけばいいよと…当時私たちは通院が大変で病院の近くで二人で暮らしていましたが凪は妻が引き取り湊は私が実家へ連れて帰りました。
嘆き悲しみもしたが、妻が治してくれたうつにまたなってたまるかと自分を奮い立たせ生きようと思えました。
両親が私にと用意してくれたスペースに小さい作業スペースを作りハンドメイド作家としてやれる限りのことをして将来両親がいなくなっても自立していける力を付けたい!制作している時間が本当に楽しめる様になった今なら何度転んでも立ち上がって生きていけると思っています。
鬱になって25年ずっと支えてくれている両親への感謝。そんな今の私を精神科の先生が初めてほめてくださいました。
最後に
様々あった私の人生ですが、健康なまま今まで過ごしていたなら今の価値観を得てはいないと思えます。誰にもつらい時苦しい時はありますし、つらい時期だからこそ見える事も学べることも有難さも分かるのだと思います。
私は身動きしずらい体で苦しみも多く治療も困難ですがハンドメイドで制作している時間はすべて忘れて夢中になれるのです。
どんなにつらくてもわが人生に悔いなどありません。家族や支えてくださる多くの方に感謝し生きていけます。
私のハンドメイド商品はこんな私の想いや経験を活かし発信し発想、創造しています。
そしてお客様のストーリーやお気持ちもお伺いできることができるならお客様と共に考え制作などできれば幸せだと思っています。
最後に本当に長々と最後までお付き合いいただき有難うございました。やっとこのブログはスタートラインにたてます。
これからもよろしくお願いします。
関連情報
ハンドメイドアクセサリーショップ | Hanakago.Craft
Hanakago.Craft
【Hanakago.Craft】では自然や生命をコンセプトととしたハンドメイドアクセサリーを販売しております。
心を癒してくれるアクセサリーを身に着けることで、いつも以上にお出かけをするのが楽しみになること間違いなし。
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